もくじ
第一回 「物語の作り方」 片山恭一さん(小説家)
1.ストーリーの紡ぎ方   2.優しいものの見方   3.自分らしく生きる事

3.自分らしく生きる事


山元隼一(以下『山』)
僕は社会に出ていくわけですが、今こういうフリーランスもしくは起業しようという立場をとろうと思ったのは自分らしく生きていくためにやむをえなくというのがあったわけなんです。コンペティションがすごく増えてて、結果多数の受賞者や総なめしてしまうような優秀な方々が生まれているとは言えるんですが、学校を出た後、映像制作の道にひとりで裸一環で出ていくのは非常に難しいと思うんですね。
なかなかそう思えない社会の雰囲気もあったりするのかなと思ったりしちゃうんですが。
会社に入ってしまうとなかなかそれからも制作を続けて行けてる人は本当に少ないし、本や映画を観てインプットしたり、自己投資をする時間も削られてしまうっていうので。。僕は今のポジションで進む事は怖いけど、行ける!行くしかない!と思ってるし、できるだけ自分という財産に投資をしたいと思って進んでるんですけど。。みんな高校までちゃんと朝補習から夜は数学、英語の予習復習してまで試験のための勉強してきたのだから、もう自分らしく好きなものを選ばせてくれよ!って思うんですよね(笑)


片山恭一さん(以下『片』)
その方がいいと思いますね。大学を出てすぐ企業に入ってしまって、企業のことしか知らない人生っていうのは、僕は就職したことないからよくわかんないですけど、結局、仕事上の知識や習慣は身につくかもしれないけど、たとえば子供の授業参観に行ったことがないとかですね。町内会の付き合いはないとか、そんな人が退職してどうするんだろうとか。


それは本当に思いますね。映画のクレイマークレイマーみたいな人生は嫌だなーと思うんですよね。忙しすぎて、子供とさえ会ったことないみたいな。


奥さんには愛想尽かされて、退職した途端に離婚とかね。それで友達もいなくて、近所付き合いもなくて、孤独だとか言いながら、最後は路上生活とか……悲惨ですよ(笑)。


なんかなんのために働いていたのかってわからなくなるかもなぁって。


そうですね。


僕は結構、映画とか観て、あーこういう人生はいいなとかこれはいやだなーとか思っていろいろ自分を当てはめててシミュレーションしてみたりするんですけど(笑)


クレイマークレイマーみたいなね(笑)。


子供とか10歳までって貴重な時間だったりすると思うんですよね。いろんなものを観て感じて、自分ももう一度子供のときに体験できなかったことをやってみたりしたいし。


そうですね。


本当に大事な人とかと好きなところに住めない。
例えば、自分の両親だったりとかっていうのさえ出来ないようにそれが選択できない一元化していってるというのは本当は疑うべきところなのに、いやーお金の問題でさぁってなっちゃっててという風になってそれで、議論が終わっちゃうのは果たしてどうだろうかと。それはみんな問題意識を持って、どうすれば出来るかっていうのを考えていかないといけないんじゃないかなと。


日本の場合だと、少子化が進んで、人口減少社会になっているわけでしょ。
そうすると、市場はどんどん収縮していくっていうのはわかりきっている。僕はこのあいだタイのバンコクに行って来たんですけれども、日本企業っていうのはどんどん海外に拠点を移しているんですね。タイなんかでもホンダとかトヨタとか巨大な工場を作って、結局、そういう風にして新たな市場を開拓するというか、拡大生産を続けるしかないのかってね。マイナス成長の方へ舵を切るのは、企業の経営者としては難しいのかもしれない。しかし、もっと別のビジネスモデルもあるんじゃないかと思うんですよね。少子化していくなら、縮小経済の中でもっとその親子の関わり合いを近密にしていくとか。そういうビジネスモデルみたいなものがあると思うし、経済成長期と同じモデルの上でやろうとすると、海外勤務のお父さんとかどんどん増えるだろうし、国内的には事業所の統合とかで単身赴任しなくちゃならなくなる。家族との隔たりは大きくなっていくばかりですよ。そしたら日本の家族というか、日本人はどうなるんだろう。


それで経済が縮小して行ってるから上の人とか正社員の給料は切らないけど、派遣切りみたいなことが起きててそういうのって本当にそれで解決しているのかみたいな。
GDPをどんどん増やしていくことを強制するんじゃなくて、みんなにそれぞれ身の丈にあった幸せがあってもいいんじゃないかなと想うんですよね。みんな部品じゃなくって、人間でその人そのひとが幸せに生きていけるっていうことを後押ししていけるっていう雰囲気にしていかないといけないなぁと思いますね。僕の周りでもどうしても就職先がここしかないってので場所を離れないといけない人も観てて、すごく努力をしていたとしても行かないといけないってのはなぁと。


ほんとそうですよねぇ。


それで戻ってこれたらいいんですけど、それもままならないっていうところもなんとなく感じて、このままでいいのかって、お金の為に働かされる人生というか、お金って本来人のやりとりを便利にするツールであったはずなのに、お金が人間のうえにきてしまってるというか。うーん、日本の自殺率もすごいじゃないですか。なんかそんだけ働いて結局誰も勝てない勝負をしていくっていうまさに年収や達成率などの数字で人の価値が決まってしまうというか。それはきついなぁと。頑張ったのに、その先で自殺するしかないってしかなくなる人がいるのはなんかあまりにも悲しいよって思うんです。


今の資本主義のビジネススタイルっていうのは達成目標とか、目標値を定めて競争させるわけだけど、誰も目標値には勝てないんですよね。目標は未来にしかない。到達すれば次の目標値が設定されるわけでしょう。やっぱりそういうところを根本的に見直していかないと、経済原理だけでやっていると、人間って不幸になっていくばっかりっていう気がしますね。


本当に仕事の取り合いにお金だったり時間をかけてる。誰かからぶんどってみたいな。


日本の自殺者数って、十何年か三万人台がつづいているでしょう。自殺率も先進国ではトップクラスですよ。これは一種の内戦状態っていうか、日本人同士が目に見えない戦争をしているようなものじゃないかな。その戦死者が、毎年三万何千人という。


誰が悪いというわけじゃなくて、システムになんらかの欠陥があるようにしか思えないんですよね。そこを改善しないと人間はどんどん不幸になる一方ではあるなと思いますね。


そういうシステムから降りるっていうね、何かポジティブでアグレッシブなイメージで、離脱のビジョンが描けるといいんですよね。


海外の人は神様を恐れるけど、日本人は世間様を恐れるところがありますもんね。すごい狭い範囲の人からの目線を気にしてる。一流大学を出て、一流企業に入ってるっていうのがバリバリかっこいいみたいな。ものづくりをしていたっていいじゃないかーって寛容に見守る社会であってほしいなって思いますね。



僕なんかが就職もせずに、いまもこうして小説を書いてるっていうのは、一つの降り方ではあったんですよね。降りるっていう意識は、若い頃からなんとなくあって、普通に就職をしてサラリーマンになってという人生は嫌だなぁって、なんとなく思っていたんですよね。そのときに何か、こうニッチみたいなものを見つけられないかなと。最初に考えたのは大学の先生だったんですけど、大学の先生って、なんとなく隙間産業みたいなところがあるでしょう。そういうところで、まぁ自分のペースで研究生活を続けられればいいなぁと思っていたんです。しかし大学は大学で閉鎖的というか、人間関係とかややこしくてですね。


派閥とかいろいろありますもんね(笑)


そうそう、アカデミズム特有の嫌らしさがあって、全然爽やかな風が吹いていないなぁと。
それでなんとなく大学からもドロップアウトしてしまって、結果的にこういう道に入ってしまったんですけどね。だから若い人たちの選択肢の一つとして、そういう生き方もあるというか、一流大学を出て大企業に就職するとか、国家公務員になるというか、それはやりたい人はやればいいし、そういう生き方を否定するつもりもないんだけど、やっぱり向き不向きってあると思うんですよ。だから選択肢の一つとして、売れない小説を書いていますとか、売れない音楽をやっていますとか、でもなんとか生きていますっていう、そういう道があるっていう風になると、ずいぶん生きやすくなると思うんですよね。こういう風な生き方もあるんだよって。なんとなく結婚もして、子供もちゃんと育っていて、お金持ちじゃないかもしれないけど、そこそこ幸せだっていう。そういう生活モデルみたいなのが。


なんかこの方向だと、お前それ所帯持てねーよみたいなことを言われているような気がするんですよね。


そうそう、そうなんです。いい歳をして、そんなことやってんだとかね。それはねすごいプレッシャーですからね。


ほんと怖いです。


だから正規のルートというかレールというか、そういうものから逸脱してしまうと、フリーターをやって最終的には路上生活で無縁死じゃないかとかね。そういうイメージしか描けないと思うんです。まわりの大人が脅かすから(笑)。


テレビとか色々なマスメディアにおいて、よくそういう風な人たちをピックアップするじゃないですか。この人は弱者であるみたいなね。


悲惨に、悲惨にしないと絵にならないっていうか、番組として成立しないっていうところがね。ドラマとかノンフィクションの作り方としてもやっぱり同じ作り方になっちゃいますもんね。悲惨なもの、極端なものを観せる。小説でもそうですけどね、極端なところ、極端なところを書いていこうとするから。


視聴率の問題があると思うんですよね。なんか作品とか映像作っててよく思うのが人を不安にさせるほうが観ると思うんですよ。あなたこうしたらヤバイよみたいな。地震が来たときどうするかとか、これでこうしたら結局死んでしまうみたいな感じで不安にさせる。
煽り立てるような感じでメディアも数字が全ての世界ですからどうしてもせざるを得ないところがあったりすると思うんで。報道番組とかそういうのくらいだけは視聴率に左右されない仕組みになったほうがいいんじゃないかなと思いますね。元々、国のお金で放送してるんだから、でかい企業の持ち物みたいに なるとよくないんじゃないかなと。大半の人がそれを見て信じてしまうわけだから。情報ソースがそこだけになってしまうとほんとまずいだろうなって。


NHKとかはスポンサーなしで番組作れるわけだから、もっとその辺を考えてというか……何も考えてないんだろうな。考えてないってことは、つまり自分の頭で考えてないってことは、彼らが表現者じゃないってことですよ。


メディアを観る場合やはり裏側に何があるのかっていうのはきちんと観る必要があると思いますね。ほとんどの場合余程意識してないと、気づいてない場合が多いので怖いなって。自分が作る側になって、そういう風な形で使ってしまっているんじゃないかと思って、本当に怖い力だなと思って慎重に表現するようになりました。

あと、周囲の人が結構就職活動をしてるんですが、新卒じゃないと入れないみたいな。
中途採用だときついみたいな感じで100社くらい受ける人がやっぱり当たり前で。すごいびっくりする数字ですよね。


どんなところを受けるんですか?


えっと僕の属してる学部(2011年3月に卒業しました)だったら、車のメーカーさんとかテレビのキー局さんだったり、広告代理店さんとかっていうところが多いと思うんですけど。あとIT系とかゲーム会社さんも多いですね。潤ってるところが多いですね。みんな安定志向ですね(笑)
中小とか多分枠はいっぱいあると思うんですけど、こんな時代ですから潰れるのが怖いとか大企業に行けば安心だみたいな。僕の周りはすごい頭が切れる人もしくは平均的な能力値が高い人が多いと思うんですけど、そのまま一流企業に入って分業化された体制に入ってしまう。するとこんな細かいことをやる人がいるのか!とか安く下請けをしてくれるところを探すだけの部署があったりだとか、データをリサーチする部とかいろいろあって。その入った人はめちゃくちゃ勉強して来てて能力値も高くて、さらに国立大学だと研究室の設備とか広さだったりでかなり血税がかけられて育てられてるんですよね。でも、その能力を完全にマニュアル化やシステム化されているところに行ってしまうっていうのは、もしくは行かざるをえないような状況というのは。。海外だとそういった大学を出た人は結構ベンチャー企業に行くであったり、起業したりっていう印象はあって、社会的にも容認されてるんじゃないかなと。自分の場合は親がフリーランスなんで寛容にいいよって言ってくれたし、30代までは好きなことをやってよしって周囲に後押ししてくれる人もいたし、今だとネットとかいろいろ使えるものはあるし。やってみるぞって。あと、まだどこで最終的にどこに拠点を置いてやるかは決めていないんですけど、福岡市の税金で育ててもらったんで、福岡にせめて税金の分もしくはそれ以上の恩返しはしたいので出来るだけこっちでまだやれることはないかって思ってますけど。どうなるかは正直わかりませんけど(笑)
新卒で入ったみんなは「希望はボーナスだけだ!」って言ってる人もいるので、優秀なみんなを雇ってあげられるくらい自分がどうにか強くなれないものかと思いますね。お茶汲みとかよくわからない会議で時間をつぶさなくていいから、自分の才能を最大限に使って楽しく生きてほしいなと。


自分の幸せっていうのを、会社とか所得とかではなく、もっとオリジナルなところで描けるようになるといいなって思いますね。出身大学にしても、就職した企業にしても、要するに帰属している場所でしょ? オリジナリティなんて、何もないですよ。


個人アニメーションだとみんな面白いくらい作風が違うんです。哲学の違いもそうだし、絵の色の使い方や線の太さから動きまで。人生も自分のたった一つの作品なのだから、同じようにたくさんの作風があってもいいんじゃないかなと思います。デッサンがちゃんとしたこの作品が一番正しいんです!っていうのはなんだか悲しいです。


別に人間が人間の姿をしてなくてもいいんだしね。



そういえば、媒体の話になったんですが、片山さんから見て今のメディアの変化ってどのように映っていらっしゃるんですか?電子書籍っていうのがだいぶ台頭してきたりしてはいると思うんですが。


よくわかんないんですよねぇ。紙か電子書籍かっていうことじゃないような気もするんですけどね。
ただ媒体が変わることで、内容まで変わってくる可能性もあるでしょうね。
テレビなどが、小学生の子供でも理解できるようなものじゃないといけないのと同じように、文芸もそういう風になってくかもしれない。まあ、僕などは何を書いてもたいして売れないんだから、自分が書きたいものを書いてやろうって、半分開き直っているところはあるんですけどね。
年齢的にも50を過ぎて、残されている時間は少ないんです(笑)。あと10年とか15年だと思うんですよ、ピークというか、脂の乗った時期っていうのは。限られた時間に、自分の書きたいものだけを、じっくり時間をかけて書こうっていう感じですね。プロとアマチュアの差がなくなってるっていう話をしたけれども、たしかにアマチュアのような若い人の小説にも、非常にすぐれたものがあるのは確かなんですよ。
感覚的に新しいっていうか、僕らみたいに歳をくっちゃあ無理だなっていうものが。そういう人たちが次から次へと出てくるわけですが、彼らが書くものにたいして、自分に何をもって対抗していくかって考えるんですけどね。一つは長いものを書こうって。1000枚を超えるもの。それもちゃんと小説的な構成と構造をもったものっていうのは、やっぱり何十年かつづけないと書けないところがあって、そういうものを書こうかなぁって。


短編だったら作りこみやすいですけど、基礎体力がないからここで終わらせたほうがいいんじゃないかと思ってストーリーを終わらせてしまう瞬間っていうのはよくありますね。
長くなればなるほどやっぱり最初と整合性がとれないものになったり、すごい難しいですよね。小説だと本当にストーリー情報量が多いので尚更ですよね。


だらだら長くっていうのは書けると思うんですよね。
日記スタイルで、今日はこういうことがありましたとか。それは長編小説とは言えないんです。長編小説というのは、その作品を支える世界観のようなものが必要なんです。今日は何をして何を食べて……というようなものを1000枚書いても2000枚書いても、長編小説にはならないんです。
その人なりの世界観とか人生観とかがないと、作品を構造的に支え切れないんですね。ただ、そうやって長いものをかいて、それが面白いかどうかはわからない。そんなところでしか、他の人たちとの差別化が図れないってことなんですけど。


観てる人が飽きてないかとかそういう思いやりの経験値っていうのが全然違いますもんね。ここは飽きて来てるだろうから盛り上げておいて、あまりにも熱量あげすぎると観てる人の情報量がパンクしてしまうからここは押さえておこうみたいな。映像だとカット数を重ねていくと観る人がオーバーフローしちゃうから、ここは間を少し長くとってあげようとかっていうのは作って観てもらって、失敗したことに気づいてっていうフィードバックを続けていかないと大変なんだろうなって思います。今も試行錯誤でやってはいるんですが。長いとどんどん粗だらけになってしまいますw
小説だと人生の経験値自体が違うんでそこに左右されてくると思うんで。


Jpopなどでも、演奏の技術はどんどん上がっていると思うんです。
アレンジの能力を含めて。すごく耳当たりのいい、ある意味、洗練された音がしてるんですけれども、歌ってる内容というのは幼稚というか、お前が好きだとか、お前が欲しいとね(笑)。
なんていうか、表現のスタイルと表現されている内容のギャップを感じるんですね。それはアニメの場合でもあると思うんです。アニメを描くスキルはどんどん上達していくけれども、その人の表現したことというか、大袈裟に言うと、人間性が幼稚なんじゃないかと思えることがある。その程度のことを、そんな高度なスキルで表現する必要はないんじゃないかって。スキルを取り去ってしまうと、あまりにも幼稚すぎるだろうと。逆の場合もあると思うんですけどね。考えていることは高度なんだけど、表現が稚拙すぎるとか。それは技術的な修練として解消していけると思うんですよ。しかし考えていることが幼稚というか、自分の頭でちゃんと考えていないってことは、表現者としては致命的なことだと思いますね。そこのところが肝心なわけですから。


結局、小説もアニメーションもコミュニケーションツールにすぎないですもんね。
その道具であるコミュニケーションの乗り物をフェラーリにするというところより、結局は何を言いたいか、どこに行きたいかっていうところですもんね。自分がここがかゆいが、あなたもかゆくない?って表現してそうそう!って共感してもらえるところが嬉しい。映像を自分が使うっていうのはやっぱり言葉で表現できない空気感を出したいっていうのがあって。映像は作られ尽くしたみたいなことが言われてるけど、まだまだ表現は人の人生の数に比例していっぱいあるし、無限大に作っていけると思うんですよね。
絵やCGの質をどんどんあげないといけないっていうので行っても、結果時間はよりかかるし、確かにコンピュータとかの技術発展はあるけれども、でもカット単位でのギャラは変わんないしっていうのは不毛な部分もあるんじゃないかって思いますね。
あと話はずれてしまうんですが、確かに一クリエイターとしてカットの質をあげたいけど、それをあまりにもやっちゃうと、大きな組織にやらされちゃうっていう場合もあるとは思うんですが、それによって犠牲にしなければならない部分も多いんだと思います。仕事っていうのは人と人との付き合いが根本にあって、それぞれに思いやらなければならないはずなのに、莫大にお金を集めなければならないだとか、人から仕事を奪わなければならないだとかの方に意識が回りすぎてしまうというのはすごい悲しいことなので自分が作品を通してなんとなく表現できないものかなって思いますね。


僕らはもうそういう時間も労力もないけど、山元さんたちの世代は、人的な装置をいかに作るかってことを考えた方がいいかもしれませんね。つまりテレビ会社があって、あいだに広告代理店があって、というビジネスモデルの中で使われる、一つのコンテンツとしてアニメーション表現があるのではなく、アニメを通して何か明確なビジョンを発信していくための装置。
ただ消費されるだけではない、個人的なメッセージ。こういう生き方はおかしいとか、この世界の仕組みは誰も幸福にしないとかですね。そういう共通の認識と志を持った人たちが、一つの装置を作って、その中で自由に表現活動を行いながら、いくらかリターンを得るとかですね。それでなんとか生活していけると、そういう人的な装置というか、ネットワークができるといいなぁと思いますね。


やっぱりそれってネットワークだと思うんですよね。
映像業界って言ってもドラマや映画、CM、3DCG、作画アニメーションだったり、アートアニメーションだったり様々が隔離されてしまっていて、それぞれが村みたいに点在している。村の中でそれぞれいやー、お金どうしようかとかいやー、米がないとか言ってる。あっちの村にすごい剣豪がいるとかこっちの村には魔法使いがいるみたいな感じでもっとつながっていくことで新しい可能性が生まれると思うんです。それを円滑にしてくれるのがWEBであったりtwitterであったりって思うんです。


そういうのに僕らが物怖じしてしまうというか、なかなか参入できないっていうのは、多分ネイティブじゃないからだと思うんですよ。ウェブにしてもツィッターにしても、僕自身があまり興味ないってこともあるし、なければないでやっていけるという感じなんですね。しかし山元さんたちの世代にとっては、もっと本質的なんだろうなって思います。そこから何か新しいビジネスモデルが作れるんじゃないかと思うんですけどね。どうしてもテレビやマスコミは、広告収入が大きいから企業は叩けないんですよ。
公務員だったらいくら叩いても大丈夫ってのがあるでしょう。そうやってなんとなく世論というか、社会的なムードを作って行くようなところがね。ウェブの世界だったら、もうちょっと自由にというか、広告代理店なんかの世話にならずに、個人商店的にいけると思います。


ほんと個人発信でいけると思いますね。
そういえば、こないだtwitterで手羽先食べたいんだけど、ここらへんで美味しい店ないかなってつぶやいたら、いろんな人からここがあるよーって教えてくれたりして、世の中って善意で出来ているじゃないかって改めて実感しまして。


そうなんですよ。人間っていうのは、基本的に善意を発揮したいという本能を持っている動物だと思うんですよ。それがうまく作動しない世界の仕組みがあって、みんな欲求不満になっている。


ほんとうまく機能しませんよね。


難民の悲惨な映像を見せられれば、みんな誰でもカンパしようと思うわけでしょう。「タマちゃん」とか「タイガーマスク」とか、ちょっと異様な現象が起こっちゃうわけでしょう。そりゃあ矛盾はたくさんありますよ、「タマちゃん」にも「タイガーマスク」にも。でも人間が善意の動物であることは確かなんです。その善意が人類規模の災厄をもたらすこともある。だから核と同じように、取り扱いは注意なんですけど、しかし人間の善良さを駆動させないかぎり、この世界が良くなることはありえないし、クリエイティブな仕事っていうのも考えられない気がするんです。


映像を作れるっていうことは僕としては一つの力だなって思うんです。仮面ライダーのベルトに例えるんですけど、平成ライダーだと、人造人間じゃなくてもベルトを付けて変身できるものがあったりするんですが、ベルトを正義の方に使うからそれは正義の味方であって、それを悪い方に使うとそれは怪人と変わらないわけですよ。だから、映像を使えるということは、いろんな人に影響を与えちゃうんですよ。映像に限らず、子供はみんな多分仮面ライダーだったりプリキュアとしてきっと生まれて来るはずなので、だから大人になっても、正義の心を忘れずにその力だったり可能性を世界のために使っていかなければと思いますね。仮面ライダー好きだったはずなのに、いつのまにか怪人になっていたっていうのはすごく悲しいことですよね。自分の仮面ライダーのベルトである映像も少しでも善意のスパイラルに寄与できたらいいなと思います。


現在はアメリカが世界の警察みたいな顔をしていて、対抗勢力としてEUがあり、ロシアや中国がありっていう、要するに経済力と軍事力のある国家が、国連も含めて世界を牛耳っていくっていう仕組でしょう。そういう仕組のなかで、いろんな物語が作られる。人権とか民主主義とか、国際協力にしても難民支援にしても、二酸化炭素削減にしても生物の多様性にしても、みんなそうですよ。ただ主人公や場面設定が違うだけでね。物語の作り方はみんな一緒なんです。それに対して全く別のストーリーが作れないか。こっちのほうがいいじゃない、もっと面白く、もっとワクワクした生き方ができるっていう、そういうストーリーが作れないかと思うんです。
こっちの水は甘いよじゃないけど、こっちの生き方の方がもっといいぞ、もっと一人一人がクリエイティブに生きることができて、それで誰も不幸にならなくてっていう、何かそういうストーリーを作ることができれば、何も言わなくても、みんなそのストーリーに魅了されると思うんです。そしてお金を払う、投資すると思うんですね。これからの表現行為を考えたときに、そういう方向性は十分あると思うんです。既存のメディアの中で勝負するんじゃなくて、自分たちの装置を作って、自分たちの考えやイメージを発信していくことで、人を呼び込んでくるっていうね。そういうやり方をしないと面白くないと思いますね。


この国ほんとダメな方向に向かってしまっているんじゃないかってほんと思いますね。
まさに政治の話が出ましたけど、間接民主制だからいろいろ弊害が出て来てしまっているので、それは国民が多いからしょうがないからとったスタイルだけれど、今ならWEBを使った直接民主制に変換してもっと国民が党じゃなくて政策に対して集合知を使ってもっと選んだりできるほうがいいんじゃないかって思います。しょうがないから消去法でこの政党を選んでるってのもあったりするんで。政治の話だけじゃなくて、直接民主制である個人発信、映像などいろんなものがもっとこれから力や現実感を持ってくるでしょうから、そこにどんどんいい感じに向かっていけばいいって思いますね。


結局、衛星放送も含めて、僕たちが見聞きしているメディアは、ほとんどアメリカ軍やアメリカ政府によってコントロールされていると思うんです。彼らにとって都合のいい情報しか流れてこない。NHKなんか見てても、イスラエルとパレスチナの問題とか、多くがアメリカのメディア経由の報道だから、なんのことだかさっぱりわからないですよ。ユダヤ人資本の強いアメリカのネットワークって、イスラエルに都合の悪いことは報道しないわけでしょう。非常に偏っているんだけど、そういうメディアによって世論とか社会のムードが作られていくわけです。なぜ戦争が起きるか、国民が賛同するから起きるわけですよ。国民が反対していれば、戦争は絶対に起こらないわけで、アメリカのアフガニスタンやイラクへの侵攻にしても、アメリカ国民が支持したからはじまったわけです。現代の国民国家において、戦争を引き起こす最大の要因はメディアだと思うんです。だからメディアの持つ力をいかに相対化するかっていうのは、21世紀の大きな課題としてあると思うんですね。


そうですね、個人単位でも真正面から情報を受け取るんじゃなくて、もっと多角的に物事を観られたりするといいんですけどね。でも、そのリテラシーを養うのって結構難しいんですよね。みんな時間もないし。


リテラシーっていうのは、ある程度の知識と経験が必要になってきますからね。おそらくウィキリークスがやって見せたことは、もっとも簡便なメディア・リテラシーみたいなことだったと思うんです。CNNがこういう映像を流すのなら、俺たちは別の映像を流すぞ、みたいな。それが結果的に、リテラシーになっていた。様々な視点から見た映像とか、ごく一部の人間しかアクセスできなかった映像が、容易に出回るようになれば、それが自然とメディア・リテラシーの役割を果たすかもしれない、とも思います。アニメなんかも、そういう力を持っていると思うんですよ。これまで見ていた世界を、別の視点から見せてくれる。例えば、ゴキブリから見た世界を見せてくれるとか。それは世界にたいする、一つのリテラシーだと思うんです。小さな女の子の出くる宮﨑駿の映画……。


アリエッティですね。


あれなんかにしても、そういった萌芽を感じさせるところはあると思うんです。僕は21世紀においては、動物や自然へのシンパシーっていうのが、とても大きな意味を持つような気がしていて、そういうところで映像が関与できる部分は大きいと思うんです。


光ファイバーとかネットがつながってれば、ほんと自給自足しながらクリエイティブな仕事や作品を作ることってできますからね。


田舎で農業しながら、世界の最先端みたいなものを発信しているとかですね。生産的なことは他の連中にさせて、俺たちはそのおこぼれというか、余剰部分で生活しながら、世界最高の芸術を目指すとか。そういう生き方が出来るようにならないと、面白くないと思うんですよ。いくら浮世離れした金にならないことをやっていても、日本の社会で飢え死にすることはないと思うんです。餓死に至る人っていうのは、希望をなくした人じゃないかな。自分の好きなこと、やりたいことを一生懸命やっているかぎり、なんとか生活はしていけるもんだって、僕は自分の経験からもそう思っています。


片山さんのご自宅に招いて頂いての本対談。終了の頃にはいつのまにかとっぷりと日も暮れていました。
片山さん山元さん 素晴らしいお話をありがとうございました。
クリエイターとして生きることのみならず、責任あるオトナとして今をどう生きるべきなのかという部分を聞かせて頂いた気がします。

未来クリエイティブ、次回は5月末に更新を予定しています。どうぞお楽しみに!
<未来クリエイティブスタッフ ヤマモトタカシ>
片山恭一さん
1959年 愛知県宇和島市生まれ、福岡県在住。
九州大学農学部卒業。同大学院博士課程(農業経済学)中退。
86年に「気配」で文學界新人賞受賞。95年に「きみの知らないところで 世界は動く」で単行本デビュー。2001年『世界の中心で愛を叫ぶ』が 300万部を超えるベストセラー。
ほかの著書に『ジョンレノンを信じるな』『DNAに負けない心』 『満月の夜、モビイ•ディックが』『空のレンズ』『船泊まりまで』 『最後に咲く花』などがある。
山元隼一
アニメーション作家•映像ディレクター
1985年 福岡生まれ
九州大学 芸術工学部画像設計学科に入学。
同大学院芸術工学府デザインストラテジー専攻修士課程卒業。

在学中、オリジナルアニメーション『memory』『Anemone』などを制作。
ASIA GRAPH 第二部門、第三部門 最優秀作品賞
BACA-JA2009 最優秀作品賞
第十四回 アニメーション神戸デジタルクリエイターズアワード 最優秀賞など。
学生時代より受注制作を行い、現在はフリーランスとして活動中。
神戸市PRアニメーション「神戸と私」監督 、NHKワンセグ2ドラマ 「僕がセレブと結婚した方法」アニメーション制作 Chemistry 「period」PV アニメーション / デザインなどがある。

ホームページ http://falcon-one.net

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