もくじ
第一回 「物語の作り方」 片山恭一さん(小説家)
1.ストーリーの紡ぎ方   2.優しいものの見方   3.自分らしく生きる事

2.優しいものの見方


山元隼一(以下『山』)
片山さんの小説って作品を通してどれもすごい無力な人に対しても優しい目線を持たれている印象がありますね。思いやりを持って感情移入されてるような。

片山恭一さん(以下『片』)
あぁ、そうですかねぇ。


俺はこの子さえ守れねえ!みたいな。


はははっ(笑)


子供のときとかは割と自分に対して万能感っていうのがあると思うんですけど、高校以降って同じような成績の人とかの中に放りこまれたり進路のことを考えたりして自分って無力なのかもと考えてしまうわけですよね。自分って何にでもなれるんじゃないかって信じてたけど、数字であったり、いろんな現実的を知って順位を決められてしまったりすることでどんどん自分の無力感に落ち込む。その無力な自分を全肯定してくれたかけがえのない存在とのつながりがすごく儚くかけがえのないもので、いつか終わりがくるかもしれないことの愛しさ。失ったときに改めて大事だったことに気づくこととそこでまた自分が無力だったことに気づくという部分が感情移入出来たと思うんです。
そして、こういう事を誰かに言って欲しかったというような。尾崎豊とかも若者の代弁者的なところでファンがいたんだと思うんですけど、自分のかゆいなぁと思ってるけど、どこがかゆいかわからない。そう!そう!そう!そこがかゆかったんだって教えてくれたのが尾崎豊であったりと思うんです。


そうですよね。ベストセラーとかミリオンセラーとかいうのは、そういうものがないと売れないと思うんです。だから僕なんかも『世界の中心で、愛をさけぶ』を書いたとき、全然そういう目論見があったわけじゃないけど、たまたま多くの人の、たとえば山元さんの中にあるストーリーに触れたんでしょうね。
みんな、いろんなストーリーを胸に秘めていると思うんですね。言語化されないままに。
そこに物語がフィットすると、商業的に言うと売れるっていう形で現れるんだろうとは思うんですけどね。あの小説が売れたってことに関しては、自分の中では達成感とか実感はあまりないんですよね。まあたまたま、偶然そうなったみたいな。


一人歩きしたみたいな感じですかね。


しかも僕自身が、どこまで関与しているかわからない。その他の作品って、全然売れてないわけですからね。たまたま、あの一作だけヒットしたっていうね。だから僕の場合は、数が少なくても自分の作品をコンスタントに読んでくれる読者をいかに作るかっていうのが、課題だと思っています。小説は出し続けているけれども、全然手応えがない状態なんですね。どこに自分の読者はいるんだろう、読者とのつながりが見えないっていう感じですね。ミュージシャンの場合だったら、ステージに立てばダイレクトに反応がかえってくるでしょう。でも、僕の場合だと原稿を書き上げたら、そのあとの作業っていうのは、全部編集者とか出版社の仕事ですから。そう考えると、物書きっていうのは孤独な人が多いんじゃないかな。


そうですね、確かにそうですよね。
映像って割と落語とか音楽のライブ感に近付いてきてると思うんですけど、ニコニコ動画に配信したときって、コメントが秒数単位で意見をもらえる。
中学星っていう作品の作者の子がここにコメントが来るだろうからこう作るっていうことを言ってたんですけど、そのライブ感覚がだんだん映像で学べる様になって来てきているのかなぁと思います。観終わった感想と観てる時に感じる印象っていうのは全然違ったりして、観終わった感想っていうのは観たあとに、特に印象に残ったことしか聞くことができないけど、観ているときに感じた些細な感想っていうのはすごく貴重だなぁと。



たしかにライブ感覚というか、ツイッターなんかの書き込みで瞬時に返ってくる反応ってありますよね。
それは多分、印象批評っていうか、ぱっと聞いてぱっと観たときのような印象だと思うんですよね。
もちろん文学の場合も印象批評っていうのはあって、そういったところで直感的にというか、短いスパンでフィードバックされる感想というのも、一つの批評かもしれない。でも、僕らはもう少し長い目で観ているところがあって、例えばドフトエフスキーの読者なんかは、いまも世界中にいるわけですよ。
ドストエフスキーの多くの作品が書かれたのは、百五十年近く前ですから、彼らは百五十年後の読者ということになる 。僕らは百年後の感想も気になるわけですよ。
だから願望をこめて言うと、小説というか文学というか、あるいは紙を媒体とした表現というのは、残っていくという特性を持っているわけだから、五年後、十年後の感想、五年後、十年後の読者に向けて書いていくっていう姿勢も大事なんじゃないかなと。それを少しでも頭に入れておくべきだと思うんです。
いまは書く方も売る方も、あまりにも短期的に作品をとらえ過ぎているんじゃないか。瞬間的な、瞬発的な成績を見て、売れたとか売れないとか言っている。とくに新刊は、一週間くらいが勝負だとかですね。一ヵ月で動かなければ、そのまま棚から消えていくっていう場合が多いようです。
現実はそうなんだけれど、やっぱどこかで十年後、二十年後、五十年後……そういう時間で自分の表現を考えていきたいなぁというのがあるんですよね。千年後の自分の読者とかね、想像するのは自由ですから(笑)。


漫画とかアニメーションっていうのは80年代以降、パロディ作品が多くてどうしてもこれを知ってる前提で、マジンガーZを知ってる前提とかヤマトを知ってる前提でのギャグの感じがあると思うんですよ。だから、何十年後とか百年後に残る建築のようなところを考えて作られてきているところはある気がしますね。


例えば絵画でいうと今印象派と言われている人達のものって当時のパリのサロンの中では評価されなかったわけでしょう。モネにしてもセザンヌにしても。
しかし、100年経って見ると印象派っていうのはすごく一番僕らが近代絵画って言われてまず思い浮かべるのがあの人達の絵なんですよね。ゴッホにしてもなんにしても。そうすると、印象派の人達って100年後の人間に向かって書いていたってことも言えると思う。
だから、表現っていうのはいろんなタイプのものがあって、瞬間芸的なものもあるし、そしてそんな風に50年後、100年後の人間に向けて何かを表現するっていうものもやっぱりあったほうがいいと思うんですよね。だから、両方兼ね備えてるものってのが一番いいんですけれど、それがなかなか難しいんですね。
僕なんかは割りとそういうことを考えますね。自分の小説が何十年も読まれ続けるかわからないし、勝算はむしろないって言ったほうがいいんでしょうけど、でもやっぱりなんかそういうことを考えていかないと、微力ながらも人間がどういう方向に向かって行くのかっていうのを考えながら小説とか書いてるところはあるんですよね。そうすると五十年後、百年後の世界のエネルギーの問題、地球環境の問題をとっても二酸化炭素の削減枠でもこれだけもめてるわけですけれども、確実に次の世代っていうのは大変な時代を迎えると思うんですよね。そのときにいつまでもこんな風に領土争いをやって、要するに強いものが勝つだけでいいのかとか。
なかなか自分一人の力では変えられないし、それでなにか寄与するとあるとは思えないけれど、でもやっぱその異常な世界の中で真っ当なことを考え続けたいっていう気持ちが強いんですよ。だから、そういう中で自分が書いて行くものもあるわけで、一番理想的なところでいうとそういうことなんですよね。
ただ、僕らの場合でも一応商業出版であるから、商品として提供するわけですよね。そのギャップというか、乗り越え難いものがあって。


アートと商業作品の話ですよねぇ。


えぇ、山元さんなんかもそうですけれども、確信犯的に商品として売り出すことさえ非常に難しい時代になっているわけですよ。アートとか高等なことは言わなくても、とにかくこれで食って行くんだっていう、そういう何か自分の作るもので食べていくっていうのが非常に難しくなってきてると思うんですよね。
文学の場合は昔からそうで、特に純文学で食っていくというのは、今でもそうですけど、ほとんど現実性がない、不可能だと思っておいた方がいいんですね。だから、僕らもなんとなく小説を書き始めたわけですけれども、これで食って行けるとは最初から思っていなかったんですよね。食べていくための仕事は別に、たとえば塾の講師か何かしながら、こつこつ小説を書いていこうと思っていましたね。とはいえ発表の場は欲しいから、何か同人誌みたいなものをやるのか、あるいは自費出版で本を出すか、そういう形でやるしかないだろうなと思っていました。


やっぱりライフワークとライスワークは切り分けて考えないと社会と接点を持つ以上しょうがないとおもうんですよねぇ。食べていくためのライスワークをやりつつも、作家性を表現できるようなライフワーク、こう思ってるぞ!例えば、こんなにみんな仕事の取り合いで時間がなくなってしまっていいのかなぁとかそういうのを表現したいとは思うんですよねぇ。ほんと仕事の奪い合いとか書類書くだけで仕事になってしまってて、何かを本当に仕事してるのかなという気がするんですよねぇ。そういうことを思う瞬間があって。


クリエイティブな仕事っていうか、何かを表現するっていうのが仕事として成り立たなくなっているというのは、どの分野でもそうだと思うんですよね。結局、他人によって表現されたものを享受したいと思う人より、自分で表現したいっていう人が圧倒的に増えて、そのためのツールというのは、コンピュータでもそうですけど、アニメでも音楽でもそうだし、小説なんかでもそうなんですよね。キーボードさえ打てばなんとなく文字が出ることになってますからね。しかも自分が書いたものを配信できるっていう。
そういう風に、ものを表現する環境っていうのが整備されてきているから、何かを表現したい、何かを作りたいっていう欲望は、わりと満たされやすい条件が整ってきていると思うんですね。
その中で、プロとアマチュアの差っていうのがなくなってきているというか。だから音楽の場合でもそうだと思うけど、文芸なんかの場合でも小説を書く、あるいは自分史のようなものを書く、そういう書くという作業が、一つの消費行動になってきているんですよね。これまでは消費と生産がはっきり分かれていたというか、何かを作るっていうことが生産だったんだけれど、いまは生産という形の消費というか、生産であるはずの行為が、同時に消費でもあるというような社会になってきてる気がするんですよね。だから音楽やりたいっていう人も、音楽をやること自体が、一つの消費行為になってるわけでしょ。楽器を買ったり、いろんなテクノロジーを導入しながら音楽を作っているわけだから。そうした産業構造に入っているわけですよね。文芸の場合も、たとえば自費出版というのは、わりとはっきりとした消費行為ですよね。



今だと、電子書籍の場合とかもそうですよね。e-pubみたいなもので簡単に出せるようになってきてるし。


そういう形で、消費がそのまま創造になって、創造的な行為がそのまま消費行為にもなっているっていう。それが現代社会の大きな特徴だと思うんですよね。その中で表現者として何がやれるのか。自分は作家ですとかミュージシャンですとか、一応肩書としてはそうなっていても、プロなのかセミプロなのかアマチュアなのか、線引きがはっきりしなくなって、そういう線引きをすること自体、無意味になっているというか。
だから小説でも音楽でも、一発か二発は、面白いものが出せるような気がするんですね。それをある水準で継続できるかどうかが、プロとしてやっていけるかどうかの、分かれ道になるのかもしれない。よくわかりませんけど。女の子がたくさんいるグループとか、あの子達を見ると、無作為に集めてきたような感じがするでしょ。


この人じゃなくてもいいっていうのはたまに感じますね。


顔と名前が一致しないし、覚えきれないし、タレントとかアイドルってのが、そういう感じになってきていると思うんですね。


すごい悪い表現になっちゃうけど、部品みたいになってきてるとういか。
部品を取り替えて取り替えて、一つのロボット、集合体としてそれが出来ちゃうというか。。。


そうですね。


一人のプロデューサーっていうのが作ってるっていうところはあるかもしれないですね。


音楽なんかの場合で言うと、どれでもいいんですよね。結局、プロモーションワークみたいなものが全てになってしまって、うまく消費者の耳に届いた音楽が売れているっていう。
いわば営業の世界になってしまって、あまりクリエティブな要素が入ってくる余地がなくなってきてる気がするんですね。そうなってくると、どういう売れ方をするかっていうと、たとえばB'zが必ずミリオンセラーを出す、B'zがCDを出せば必ず100万枚売れるとかですね。そういうビックネームだけが売れていくっていうような世界になってくる気がするんです。文芸もそうなってて、今年売れたのは純文学でいうと村上春樹だけですよね。小説を毎月何冊も読む人って少ないと思うんですよね。ミステリーとか歴史小説などは別だけど。純文学なんて、せいぜい年に一冊とか二冊。そういう人が何を手にとるかっていうと、ビックネームを手にとるっていう。一、二冊しか買わないのに、リスクを冒すわけにはいきませんからね。


テレビで流れてて有名なやつだけを買っておけば安心だみたいなところはありますよね。


CDはB'zの新譜が出れば、年に一枚くらいは買いましょう。ついでにDVDも買いましょうみたいなね。あらゆるジャンルでそういう風になっていて、結局、音楽だけ聴いてるわけにはいかないし、本だけ読んでいるわけにはいかないわけだから。携帯でメールもしなければいけない、パソコンでゲームもしたい、テレビも観たい……という具合に、あまりにも選択肢が多くなってしまって、一つのことに割ける時間、あるいは費やせるお金っていうのは小さくなっていると思うんです。



コンテンツが多すぎて時間とかお金がどんどんなくなっていってて、すきま時間でさえも携帯ゲームであったりとか、電車乗ってるとみんな携帯ゲームやってて、おや、まぁと思ったりして。昔は本とかを読む時間だったりしたと思うんですけど、そこに動画やゲームコンテンツっていうのも入ってきたりしてて、それでどう観る人をひきつけるというか、時間を割いてもらうというかっていうのは今後の課題になっていくんでしょうね。



そうですね。



片山恭一さん
1959年 愛知県宇和島市生まれ、福岡県在住。
九州大学農学部卒業。同大学院博士課程(農業経済学)中退。
86年に「気配」で文學界新人賞受賞。95年に「きみの知らないところで 世界は動く」で単行本デビュー。2001年『世界の中心で愛を叫ぶ』が 300万部を超えるベストセラー。
ほかの著書に『ジョンレノンを信じるな』『DNAに負けない心』 『満月の夜、モビイ•ディックが』『空のレンズ』『船泊まりまで』 『最後に咲く花』などがある。
山元隼一
アニメーション作家•映像ディレクター
1985年 福岡生まれ
九州大学 芸術工学部画像設計学科に入学。
同大学院芸術工学府デザインストラテジー専攻修士課程卒業。

在学中、オリジナルアニメーション『memory』『Anemone』などを制作。
ASIA GRAPH 第二部門、第三部門 最優秀作品賞
BACA-JA2009 最優秀作品賞
第十四回 アニメーション神戸デジタルクリエイターズアワード 最優秀賞など。
学生時代より受注制作を行い、現在はフリーランスとして活動中。
神戸市PRアニメーション「神戸と私」監督 、NHKワンセグ2ドラマ 「僕がセレブと結婚した方法」アニメーション制作 Chemistry 「period」PV アニメーション / デザインなどがある。

ホームページ http://falcon-one.net

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